母の月命日

 

 
今日、5日は母の月命日だ。
亡くなって約9ヶ月も経っているのに、今日まで毎月の月命日に、「今日は月命日」と、意識する日が今まで持てなかった。
それは私が、疲労が溜まって体調を崩してしまったり、色々な手続きや片付けに追われたり、心身に余裕がなかったからなのかもしれない。かと言って、母のことを忘れた日はない。元気な頃は殆ど忘れて、自分の生活にかまけていたが、居なくなると、その寂しさと懐かしさは身に滲み入るのだ。母親は偉大である。
 
2006年頃だっただろうか。リリー・フランキーの自伝小説「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」がベストセラーになり、テレビドラマや映画もとても流行った。テレビドラマの主題歌はコブクロの「蕾」。
私は夫と共に、世間の例外に漏れず、そのドラマを見ていた。
 
ラストシーン、主人公ボクの母親が亡くなったその後、ボクのナレーションが入った。正確なセリフは覚えてはいないが、確かこうだったと思う。それは、東京の街中で歩く大勢の人々を眺めて、ボクはこう思うのだ。「それぞれみんな、きっと大事な人を亡くしているんだ。それでもこうやって、何もなかったように、頑張ってみんな生きている。みんなすごいなあ…...」と言うようなことだっように記憶している。
そこへ、コブクロの曲「蕾」が流れた。なんとも言えぬエモーショナルな感情が込み上げた。
しかし、それはあくまでも、両親健在だった私にとっては、想像の世界だった。
私も母を亡くし、今「ボク」と同じ立場になった。今また観たなら、もっと共感できると思う。いや、できるに違いない。
 
ーーー母は死期が迫った頃、「消えてなくなりたいなんて、言っちゃいけないね」「死ぬのはなかなか難しい」「みんな頑張ってくれているから、生ある限り頑張らないといけない」と言っていた。「生ある限り頑張って生きる」と言う言葉はよく言っていた。
 
ーーー母は嫁に入った家で、強めの姑たちや小姑もいる中、一生懸命に頑張って生きた。私はその苦労を子ども心に、ずっと見てきたのである。母はすごい頑張り屋であった。私にはできない。
 
ーーー「家で診てあげられなくて悪いね」と私が言った時、眉を顰めて、強く首を横に振り「悪くなんかないよ」と言ってくれた。
 
ーーー母の生活は何をするのも、几帳面で丁寧だった。それは洋裁でもそうで、子どもの頃はお人形の服も作ってくれた。今見ると、小さいのに縫製も素晴らしい。当時、友達が市販のお人形の服を買って貰っていたが、とても高かったらしい。母はお人形のドレスまで作ってくれたのだ。私のマタニティーを数着作ってくれた。私が好みの生地を買って、「こんな仕上がりにして」と言うリクエスト通り、ポーチやソファーのクッションカバーや、赤ちゃんのベッドのゾウさんのクッションも作ってくれた。
   ブランドと同じ柄とデザインで、私と娘のペアのワンピースも作ってくれた。孫の入園入学の持ち物のアップリケなどを手伝ってくれた。
   孫のバレエの衣装もたくさん作ってくれた......
 
ーーー私の家に遊びに来た時は、よくタッパーに入れて、美味しいポテトサラダや煮物などを持って来てくれて、とても助かった。来るとキッチンのガス台をピカピカに磨いて帰って行った。私が育児中になるべく楽になるよう、きっとやってくれたのだと思う。 出かけた時は、よく小さいおにぎりを作ってきてくれた。ちょっと車の中など、どこでも食べられるようなおにぎり。煮物の作り方を聞いた時は、それぞれの具材を別々に煮て、下ごしらえしたり、本当に丁寧だった。
 
ーーー私の出産では、初めての時は、20時間もかかったのに、ずっと病院で心配して待っていてくれた。廊下で初孫を抱っこした時は、私が生まれた時と顔が似ていて、錯覚が起きたほどだと言っていた。2度目の時は、夜中だったけど、上の子に服を着せたり支度して、夫や孫と一緒に病院に来てくれた。産後やつわりの時もすごくお世話になったものだ。産後の体調があまり良くなかった時は、薬局に相談して、キョーレオピンだったか、滋養強壮の医薬品を買ってきてくれたことも、思い出す。
 
ーーーもう長くない母に、昔の写真を見せた時、「こんな時もあったね」と笑顔を見せてくれた。私が独身の時の、家族旅行のシンガポールでの写真を見せた時「マーライオン」と言ったのには、驚いた。何十年もマーライオンという言葉さえ交わしたことがないのに、覚えていたのだ。父と二人の時、レストランで言葉が通じなかったエピソードも自ら話していた。他に何を覚えているか聞いたら「4人で歩いた」と言った。
また、孫たちと行った旅行の写真でも、「でんぐり返しをしていた」と言った。私はすっかり忘れていたが、その時の動画を確認してみたら、寝る前の旅館の布団の上で、一生懸命に次女がでんぐり返りをして、祖父母に見せていた。そういえば、そうだった。
 
ーーー母は家で舅(義理の父)の介護もした。下の世話もした。私が祖父のお見舞いに行った時、母は苦しそうな祖父の頭を慈しむように手で優しくなぜていた。その姿は、女神様のように感じた。だから、母が旅立つ時、苦しい痛みもなく逝けたのは、神様がいるとしたら、きっと神様は見ていてくれたんだと感じた。
 
ーーー母は自分のためより、子ども達や孫達のために、全てを傾けてくれた。そのことを言った時、母はベッドで目を瞑ったまま「同じこと」と言った。
 
【同じこと】こんな簡単に、こんな荘厳で重厚な意味の言葉をさっと言えた母。到底かなわない。お母さん、本当に本当にありがとう・・・