非常に奇妙な量子力学とダークマター、からの母の一周忌に思う

物理学とは最も縁遠い私。3年前に、国立科学博物館で、友達とスーパーカミオカンデにある光電子倍増管を見て、人の体を素通りしながら、降り注ぐニュートリノの不思議を思った。前々回のブログでは、人の死後は、天国も意識も何もなく、それで終わりなのかもしれないと、記述したけれど、量子力学の世界に触れて、最近思うことが変わってきた。

 

母が亡くなってから、私は前から少しは興味があった宇宙に、より興味を持つようになっていた。それは何故かと言うと...この異常なほど広い宇宙で、奇跡のように生きる私達人間。その意識は、肉体を失った後にどうなるのか...と思いを馳せるのに、神秘的対称であったからだ。

 

私は今まで全宇宙のものは、地球上にある物質のような見たり触ったりできるもの、つまりミクロにすれば原子でできていると思っていた。しかし、それらは全体のたった5%に過ぎないことは科学的にはっきりと、わかっているらしい。では、あとの95%は何かと言うと、これがまだ人類には正体不明のダークマター暗黒物質)やダークエネルギーと言われているものらしくまだ研究中である。となると、私達が知っている世界は本当に本当に僅かなのだ。

 

宇宙や素粒子の世界は摩訶不思議だらけ。例えば、ブラックホールも、質量が大きく吸い込まれたら出られないので、中を見てくることはできないが、中の様子が、表面の二次元に、全てのデータが表されていると言う。信じられないけど、科学がそう答えるのだ。

 

人間の肉体を作っている素粒子の振る舞いは、とてもとても奇妙であることも知った。例えば、私は原子でできているが、ミクロの世界の私の素粒子は、どこにいるのか場所が決まっていない。決まるのは、あなたが私を見た瞬間に決まる。見てない時はどうなっているかと言うと、どこにもいないし、どこにでもいる。観測したことによって、事実が確定する。こんなことが、信じられるだろうか。何がなんだか、混乱する。なかなか信じられないけれど、これが最先端科学の事実なのだ。

 

コインで例える事も多い。二つの対の量子が、二つのコインだとして、それぞれに箱に入っているとする。ある人が一つの方の箱を開けてコインが表になっているのを見た瞬間、もう一つの箱のコインが瞬時に裏と決まる。では、箱を開けて見る前はどうかと言うと、それぞれのコインは表でもあり、裏でもあり、どちらかには決まっていない。これは距離とは全く関係なく一方が地球にあり、一方が遠い月にあっても同じである。一方が観測されて決まった瞬間に一方が逆の結果に決まる。まるでテレポーテーションをしているようだ。

 

今、一生懸命に研究されている量子コンピュータは、このような特性を利用した物らしいが、まだ幼稚園の段階だと言っていた。しかし、世の中には、理解し難い現象を仕事にしている天才達が、たくさんいるのだと、それさえ不思議に思え、そして感謝に堪えない。

 

また、時間についても、過去の状態は未来の状態で決まる。未来が過去を変えられる。実験データもある。

また、光よりも早いものがあるというのも、実証実験済みだ。

 

これらのことは、この3次元で考えると矛盾だらけなので、何が何だか信じられないし、理解し難い。しかし、現在は物理学者の間で必死に研究が行われている事実だ。これらの現象を考える時、やっぱり何か多重に次元が違う世界があり、現在の三次元空間があるほうが幻かもしれない。と思うようになった。面である二次元にいると、高さのある三次元のものが見えないのと同じで、私たちは面と高さの空間に住む三次元にいるから、三次元の常識でしか理解できない。ブラックホールの表面の情報のように、私たちの世界は、プロジェクターに投影された幻影の方かもしれない。

 

母が亡くなって、死は何もなくなるだけ。肉体も意識も終わり。悲しいけど、千の風になってないかもしれない。とも思っていたけれど、今は、それも違うのではないかという感じがしてきた。 物理学者の多くは、歳を重ねれば重なるほどに、宇宙の創造主はいると考える人が多いと言う。それは、人の形をしたような神様ではなく、何かしらの意識とでも言うようなことらしい。例えば、iPhoneの部品が全部揃ってたとしても、それを何億年もただ撹拌しても、iPhoneにはならない。宇宙も人間も同じではないかと...

 

私にはやけに、しっくりくるのだ。

 

最先端の物理学者が実証した科学を知った今は、きっと多重に次元の違う世界があり、人の意識も肉体を離れて他の次元に行くような気がしている。それならば、きっといつかは、再び母に会うことができるだろう.....

昔のあの懐かしい陽だまりの中で。

 

※2022年のノーベル物理学賞の受賞者は、量子力学の分野で、量子の振る舞いについて、この「量子もつれ」という特殊な現象が起こることを理論や実験を通して示し、量子情報科学の開拓に大きな貢献をしたフランスの大学の研究者など3人が選ばれた。

人類は量子もつれを利用して、パソコンや携帯、レーザー、MRIなどを作って生活を向上させたが、この不思議の謎は誰にも解明されていない、まるで神の領域のような不思議さだ。

 

 

 

 

母の月命日

 

 
今日、5日は母の月命日だ。
亡くなって約9ヶ月も経っているのに、今日まで毎月の月命日に、「今日は月命日」と、意識する日が今まで持てなかった。
それは私が、疲労が溜まって体調を崩してしまったり、色々な手続きや片付けに追われたり、心身に余裕がなかったからなのかもしれない。かと言って、母のことを忘れた日はない。元気な頃は殆ど忘れて、自分の生活にかまけていたが、居なくなると、その寂しさと懐かしさは身に滲み入るのだ。母親は偉大である。
 
2006年頃だっただろうか。リリー・フランキーの自伝小説「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」がベストセラーになり、テレビドラマや映画もとても流行った。テレビドラマの主題歌はコブクロの「蕾」。
私は夫と共に、世間の例外に漏れず、そのドラマを見ていた。
 
ラストシーン、主人公ボクの母親が亡くなったその後、ボクのナレーションが入った。正確なセリフは覚えてはいないが、確かこうだったと思う。それは、東京の街中で歩く大勢の人々を眺めて、ボクはこう思うのだ。「それぞれみんな、きっと大事な人を亡くしているんだ。それでもこうやって、何もなかったように、頑張ってみんな生きている。みんなすごいなあ…...」と言うようなことだっように記憶している。
そこへ、コブクロの曲「蕾」が流れた。なんとも言えぬエモーショナルな感情が込み上げた。
しかし、それはあくまでも、両親健在だった私にとっては、想像の世界だった。
私も母を亡くし、今「ボク」と同じ立場になった。今また観たなら、もっと共感できると思う。いや、できるに違いない。
 
ーーー母は死期が迫った頃、「消えてなくなりたいなんて、言っちゃいけないね」「死ぬのはなかなか難しい」「みんな頑張ってくれているから、生ある限り頑張らないといけない」と言っていた。「生ある限り頑張って生きる」と言う言葉はよく言っていた。
 
ーーー母は嫁に入った家で、強めの姑たちや小姑もいる中、一生懸命に頑張って生きた。私はその苦労を子ども心に、ずっと見てきたのである。母はすごい頑張り屋であった。私にはできない。
 
ーーー「家で診てあげられなくて悪いね」と私が言った時、眉を顰めて、強く首を横に振り「悪くなんかないよ」と言ってくれた。
 
ーーー母の生活は何をするのも、几帳面で丁寧だった。それは洋裁でもそうで、子どもの頃はお人形の服も作ってくれた。今見ると、小さいのに縫製も素晴らしい。当時、友達が市販のお人形の服を買って貰っていたが、とても高かったらしい。母はお人形のドレスまで作ってくれたのだ。私のマタニティーを数着作ってくれた。私が好みの生地を買って、「こんな仕上がりにして」と言うリクエスト通り、ポーチやソファーのクッションカバーや、赤ちゃんのベッドのゾウさんのクッションも作ってくれた。
   ブランドと同じ柄とデザインで、私と娘のペアのワンピースも作ってくれた。孫の入園入学の持ち物のアップリケなどを手伝ってくれた。
   孫のバレエの衣装もたくさん作ってくれた......
 
ーーー私の家に遊びに来た時は、よくタッパーに入れて、美味しいポテトサラダや煮物などを持って来てくれて、とても助かった。来るとキッチンのガス台をピカピカに磨いて帰って行った。私が育児中になるべく楽になるよう、きっとやってくれたのだと思う。 出かけた時は、よく小さいおにぎりを作ってきてくれた。ちょっと車の中など、どこでも食べられるようなおにぎり。煮物の作り方を聞いた時は、それぞれの具材を別々に煮て、下ごしらえしたり、本当に丁寧だった。
 
ーーー私の出産では、初めての時は、20時間もかかったのに、ずっと病院で心配して待っていてくれた。廊下で初孫を抱っこした時は、私が生まれた時と顔が似ていて、錯覚が起きたほどだと言っていた。2度目の時は、夜中だったけど、上の子に服を着せたり支度して、夫や孫と一緒に病院に来てくれた。産後やつわりの時もすごくお世話になったものだ。産後の体調があまり良くなかった時は、薬局に相談して、キョーレオピンだったか、滋養強壮の医薬品を買ってきてくれたことも、思い出す。
 
ーーーもう長くない母に、昔の写真を見せた時、「こんな時もあったね」と笑顔を見せてくれた。私が独身の時の、家族旅行のシンガポールでの写真を見せた時「マーライオン」と言ったのには、驚いた。何十年もマーライオンという言葉さえ交わしたことがないのに、覚えていたのだ。父と二人の時、レストランで言葉が通じなかったエピソードも自ら話していた。他に何を覚えているか聞いたら「4人で歩いた」と言った。
また、孫たちと行った旅行の写真でも、「でんぐり返しをしていた」と言った。私はすっかり忘れていたが、その時の動画を確認してみたら、寝る前の旅館の布団の上で、一生懸命に次女がでんぐり返りをして、祖父母に見せていた。そういえば、そうだった。
 
ーーー母は家で舅(義理の父)の介護もした。下の世話もした。私が祖父のお見舞いに行った時、母は苦しそうな祖父の頭を慈しむように手で優しくなぜていた。その姿は、女神様のように感じた。だから、母が旅立つ時、苦しい痛みもなく逝けたのは、神様がいるとしたら、きっと神様は見ていてくれたんだと感じた。
 
ーーー母は自分のためより、子ども達や孫達のために、全てを傾けてくれた。そのことを言った時、母はベッドで目を瞑ったまま「同じこと」と言った。
 
【同じこと】こんな簡単に、こんな荘厳で重厚な意味の言葉をさっと言えた母。到底かなわない。お母さん、本当に本当にありがとう・・・

 

母の新盆を迎え  〜思うこと〜

 

お盆の季節と言えば、地方の多くは、8月の夏休みだ。ここ関東地方、東京では、旧暦で行うので、7月13日が先祖の霊を迎える日、お盆初日になる。

 

しかし実際に、お盆の意味も含めて、私がそれらを知ったのは、かなり後になってからのことであった。

 

私の子ども時代、近所の友達はほとんどが4〜5人家族で、6畳一間、台所とトイレが共同のアパートに住んでいた。

私はアパートではなかったが、祖父母や叔母も居た狭い一軒家で、その生活は、周りの友達とほぼ同じような感じであった。

 

お盆の日になると、唯一、夕暮れ時から、子ども達が出かけることを許される行事に、ワクワクしたものだ。浴衣を着せてもらって、紙製の提灯を手に持ち、家の前の狭い道路にみんなが集まる。それぞれの、色とりどりの浴衣の柄が、華やかだった。そして提灯行列が始まる。

何人かの友達の親が付き添って、一緒に回ってくれた。各々が持つ、棒の先にぶら下がった、絵のついた提灯の中には、現代のようなライトではなく、蝋燭が入っていて、火を付けてもらった。

その提灯を持ちながら、近所の道をぐるっと何周か回る。その時は、みんなで声を揃えてこう歌う。

♩ちょうちんぎょうれつ♪わ〜いわい♪お化けのちょうちんぶ〜らぶら♪』

提灯を持ちながら歩くので、必ず誰かの蝋燭の火が、紙の提灯に燃え移ってしまう。

持っていた子は急いで手を離し、最後にみんなで足で踏んで火の後始末をする。

道路の上で燃えカスになってしまった提灯が、なんとなく物悲しい。

 

そんな子どもたちの行列の声を最後に聞いたのは遥か昔になってしまった。寂しいかな、もう、その習慣は、いつの間にか、絶えてしまっていた。

 

そんな一連の行事も、お盆初日に、ご先祖様の霊を家にお迎えする目印の灯りだったのだなあ・・・と

今になって思うこの頃だ。

 

去年の秋に母を亡くした。

母とは、ぶつかることも多かったが、それは遠慮のない親子ゆえのこと、いつも自分よりも子どもを優先して、無償の愛をくれたと感じている。

その母の新盆が近づいてきた。

 

都内ではあまり迎え火や送り火を焚く家を見かけない。

去年だか、近所の人が玄関先でやっていたのを見かけたくらいだ。その家は新盆だった。

 

迎え火で霊を家に迎えて、数日後、送り火で見送るお盆。主人の実家は田舎なので、藁でやっていたが、どうしたものか..そこで、試しに通販で探すと、とても小さな「迎え火送り火セット」が売っていたので、これはよいものを見つけたと思い、それと、新盆用の白い灯籠を購入した。この灯籠は仏壇の前に飾ろう。

これにお花や、お菓子や、果物を供え、茄子やきゅうりに楊枝で足を付け、橙色のほうずきを飾れば準備は完了だと考えた。地方の人から見ると、簡素だと思うかもしれないけど、私はそうしようと決めている。

 

そもそも私はこの行事に対して、どこまで信じているのだろうか。

ご先祖様や母の霊は存在するのだろうか.....

 

こればかりは完全に死んでみないと分からない。幽体離脱や仮死体験ではだめだ。完全に死んでみないと、誰も分からないことだと思っている。

 

私が育った時代は、テレビ番組など、霊を扱うものがとても多かった。霊媒師が除霊をしたり、ロケに行ったりと、ゴールデンの時間帯で、よく放送された。また、霊ではないかと思われる不思議な現象の話を、身近の人から聞いていた。

実際に自分でも、不思議な経験はある。

 

テレビの影響や、読んだ本などから、若い頃は霊の世界を疑うことはなかった。

 

しかし、10数年前、私は手術の時、全身麻酔を一度経験した。そのことで、ちょっと世界観が変わったのだった。

麻酔がかかっている間は、夢もなく、当然であるが、全く意識がなかった。人生でそこだけの時間がすっぽりと無になったのだ。

自分が存在していることも知り得なかった。私は直感的に、生まれる前や、死んだ後も、あの全身麻酔の時の様な感じなのではないかと思った。

このことは、気になったので、検索をしてみると、同じことを書いている人がいて、少し驚いた。麻酔の経験で、同じ感想を持った人が、私の他にもいたのだ。

 

ことさら、母が亡くなってから、死後の世界を想像した。母はどこに行ったのだろう..今どこに居るのだろう..いつか私もそっちに行ったら、会えるのだろうか。もし霊の世界があるなら、また会えるかもしれない。そう信じて生きて行った方が、絶対幸せなはずだけど...

 

そう考える一方で、いや、やはり、天才理論物理学者のホーキング博士が言ったように、

「天国も死後の世界もない。」と言うのは、正解なのかもしれないとも思う。

知の巨匠と言われた、立花隆氏も、これについては熟考を重ね、かなり取材をしていた。行き着いた結果は多分、ホーキング博士と同じだったのではないか...と、晩年の言動で推察できる。

 

三途の川の淵まで行くなど、臨死体験をする人は多いし、親戚にも居るけれど、それは脳内ドラックと呼ばれる物質が出て、幻覚に似た脳の働きによるものかもしれない、と言うことも、医学の世界で言われている。

 

もし、死後の世界が存在しないとなれば、永遠に亡くなった人との再会は果たせないことになるのだ。

天国や死後の霊の世界を100%信じている人は、私のように「死ななきゃ分からない」と思う人からすると、それはもう、とても幸せなことだと思う。本気で羨ましい。心底そう思う。

 

でも私は、母を亡くして初めて感じたことがある。

 

それは、例え、天国はなくても、霊の世界はなくても、千の風になってなくても.....

母の思いは永遠だと言うことを確信するのだ。

 

母の生前の思い・・・それは、いつも私が、ずっと健康であることを祈り、いつも私が、一生幸せであることを祈り、いつも私の味方であり、いつも心で応援してくれ、励ましている。

 

母が私の一生涯の幸せを祈っていたのなら、私が生きている以上、その願いは継続していることになる。

 

その母の思いの事実がある限り、私は一生、母に励まされて生きて行くことができる。

例え天国もなく、千の風になっていなくても.....

 

母は空が好きだった。「私も空が好きなので、一緒だね」と話したこともあった。亡くなる数ヶ月前から寝たきりになったが、それでも母は、ベッドから首を傾けて、窓越しの空を、いつも見上げていた。

 

母はお星様やお月様になっていないのかもしれないが、空を見れば、私に対する無償の愛が確かにあって、今でも継続して存在することを感じ取れる。

 

だから私は、いつの時も大好きな空を見上げる...

 

朝空の彼方に、母の面影を探し、夕方の朱色を帯びた光の中にも、また、夜になると、母の大好きだった、淡く光る月を探して、夜の空を見上げるのだ...